9月22日、大津城に護送されて大津城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。
10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ京都大徳寺の三玄院に葬られた。
また一説では、引き回された三成は影武者であり、本物の三成は高知へ逃げて自害したとも言われている。
辞世の句
筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
逸話
大一大万大吉、もしくは大吉大一大万と記された紋を用いた。「万民が一人のため、一人が
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のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味ともされるが、本来は山内首藤氏の紋である。鎌倉時代の武将、「石田次郎為久」(源義仲を射落とした武将)も使用している。石田家ではこの他に九曜紋や桔梗紋も使用している。
関ヶ原の戦いで敗走した三成は近江(滋賀県)の古橋村に身を潜めた。そのときに村人たちに「このように逃れてきたのはふたたび家康と一戦を交え、天下を統一する所存であるからだ。統一の暁には、古橋から湖(琵琶湖)までの間を大きな平野となし、道は全部石畳にする」と言い、村人たちはこの言葉にひかれて石田三成を匿った。しかし隣村出身で古橋村に養子に来ていた
先物取引
という者が裏切ったため三成は捕らえられた。古橋村ではこれ以降、他村より養子を取らない慣習ができた。
前田利家の死後、加藤清正・福島正則らが三成を襲撃するという事件が起こり、家康の仲裁によって三成は奉行を辞し佐和山城に蟄居することになった。三成が佐和山城への護送役をつとめた結城秀康に「無銘正宗」を贈ると、秀康はこれを喜び、「石田正宗」と名付けて終生大切にしたという。この「正宗」は三成が秀吉から拝領したものといわれるが、江戸時代の享保期に出版された書物「刀剣名物帳」では、毛利輝元が所持していたものを宇喜多秀家が買い取り、三成に贈ったと記されている。
三成は秀吉から初めて200石(400石とも)の知行を賜った時、その全てを投げ打って渡辺勘兵衛(渡辺了とは別人)を召し抱え、家臣である彼の屋敷に起居したという逸話がある。勘兵衛は秀吉や柴田勝家から2万石の誘いを受けても「10万石でなければ仕える気はない」と断っていたほどの人物であり、秀吉を大いに驚かせたという。その後、勘兵衛は三成から何度も加増の話を受けるが、すべて断って終生200石(400石)で仕えたという。島左近召し抱えのエピソードは、この話が入り交じって伝えられたとされている。
文禄の役の際には軍目付として戦地に赴いた。幸州山城の戦いでは負傷したとされる。
斬首される前に三成は柿(干し柿)を勧められたが「柿を食べると腹を冷やすため身体に障る」と言って食べなかったとされる。これに対して「すぐに死ぬ身が身体を気にする場合ではなかろう」と嘲笑されると、「大事を成す者は最期の最期まであきらめないものだ」と答えたという。
よく犬猿の仲とされる加藤清正とは元々は仲が良かったという説もある。実際、名護屋城建設では下準備と後方支援の三成と建設指揮の清正のコンビネーションで短期間に十数万の人間を収容できる基地を建設している。二人の仲が破綻するのは文禄の役の講和問題が持ち上がった時期と思われる。
三杯の茶(三献茶)
近江国観音寺にのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、
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だった三成に茶を所望したのを出会いとするもの。史料が江戸時代のものであること等から、創作と思われる。
三成と淀殿及び高台院
一般的に広まっている誤解に、三成は旧主(浅井氏)の姫である淀殿を崇拝していたというものがある。これは両者が近江出身ということからイメージされたものと推測されるが、三成の石田家はたしかに近江の土豪だが浅井氏とは敵対関係にあった。その意味ではむしろ「仇敵の姫」とも言える。
また、豊臣秀頼が豊臣秀吉の実子ではなく三成が淀殿と密通して生ませた子であるという説があるが、淀殿不行跡の
不動産
である「萩藩閥閲録」において、その風聞があったのは秀吉の死後で、かつ相手も大野治長と記載があること及びこの話の出典が江戸中期以降ということから、現在では三成や淀殿を貶めるために幕府の御用学者が捏造したとの説が有力である[要出典]。秀頼は文禄2年8月(1593年8月29日)生まれであり、前年の文禄元年6月から朝鮮半島に赴いていた三成が秀頼の父親であるとは考えにくい。
その一方で近年、
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は秀吉の正室である高台院と親密であり、逆に秀頼の母として政治に介入する淀殿とその側近を嫌っていたとする、これまでの通説とは正反対の説も浮上している。その論拠として、三成の三女辰姫は高台院の養女である(杉山家由緒書・岡家由緒書)こと、側近筆頭の孝蔵主は三成の縁戚で関ヶ原でも西軍のために大津城の開城交渉を行っていること、淀殿の周辺に三成ら西軍派の縁者がいないことなどがあげられる(詳しくは高台院を参照)。
肖像画
少なくとも3種類から4種類程度確認されているが、ここでは特に、三成自身(と伝えられる)の頭蓋骨から復顔した肖像画を取り上げる。
関ヶ原の戦いから約300余年を経た明治40年(1907年)、東京帝國大学の渡辺世佑が三成の伝記執筆のために、三玄院にある三成のものと思しき墓を発掘、京都帝國大学解剖学教室の足立文太郎が遺骨を鑑定調査し、その時に頭蓋骨の写真を撮影した。調査の結果は「優男の骨格・頭形は木槌型・反っ歯・没年41歳相当」。下って昭和51年(1976年)、末裔の一人である石田多加幸(写真家)からの依頼を受け、東京科学警察研究所元主任技官・長安周一が石膏復顔を行い、それをもとに関西医科大学の石田哲郎の指導のもと、昭和55年(1980年)3月、日本画家前田幹雄の手によって石膏の復顔肖像画が制作された。この肖像画は現在大阪城天守閣に保管されている。同時に身長の推測も行い、156cmと試算された。
人物像
太閤検地の企画発案者[要出典]で、検地尺を定めるなど、大きな実績を残した。豊臣家奉行の筆頭格であり、優れた行政能力を持った官僚であったという評価は定着している。
毛利輝元は「かの仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(大いに気を使う)」、島津義弘は「江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし」、高野山の木食応其上人は「治少(治部少輔)、御奉行のその随一なる顔にて候つる。少しもそむけ候えば、たちまち身のさわりをなす仁にて候」とそれぞれ評し、三成が豊臣政権で絶大な権力を握っていたことをあらわしている。
不正を極度に嫌い、情実も介さず、常に自らの信念に基づいて豊臣政権の行政を司っていた。そのあまりな謹厳実直な性格が、周囲からは融通のきかない傲岸不遜、横柄な態度と映り、諸大名からの人望を得られず、加藤清正ら武功派諸将の三成襲撃を招いた。
評価
江戸時代には三成は悪人と見なされたが、明治に入ってもなお奸臣説が強く、秀次を讒訴したとか、秀吉自身は秀頼を家康に託すよう遺言したのに三成がそれに背き、天下を狙って家康と戦ったと説かれていた。三成の再評価を志した三井の朝吹英二は、三成の墳墓発掘などを行ったほか、歴史家・渡辺世祐に依頼し、渡辺は三上参次と協力して明治40年に『稿本石田三成』を上梓、三成奸臣説に論駁している。現在では実証的な評論が行われ、正確な三成像を描く模索が続いている。
肯定的材料
後世に五人組の制度の元を築いた。これは、江戸時代を通じて農政の基本となった制度である。
桃源遺事によると、徳川光圀は「石田三成は憎い人物ではない。人はそれぞれ、その主君に尽くすのを義というのだ。たとえ敵でも、君のために尽くした者を悪く言うのは良くない。君臣ともそう心がけるべきだ。」と言ったとされる。
豊臣秀吉が短期間で天下を統一できた理由のひとつとして、三成ら有能な行政官僚が常に後方補給などの輜重役を担当したことが挙げられる。実際に文禄の役の際にも兵站度外視で無闇に戦線拡大する諸将を説得して漢城(ソウル)に集結させ、碧蹄館の戦いでの勝利の基礎を作った。
佐和山で善政を敷いていたため領民から慕われ、三成の死後も佐和山の領民はその遺徳を偲んで、佐和山城付近に地蔵を築くなどしてその霊を慰めたという。
領内の古橋村が飢饉に襲われたとき、年貢を免祖したといわれている。古橋には当時、三成の母の菩提寺である法華寺があったが、三成は手厚い保護を与えていたという。
文禄4年(1595年)の豊臣秀次失脚時には、諸将が秀次を見限る中で三成は「秀次公無罪」と信じ、最後まで秀次の助命に動いたという記録もある[2]。秀次の家臣であった前野忠康(舞兵庫)ら若江八人衆はその三成の姿に感激し、以後、三成の麾下に加わったとされる。たこの際、細川藤孝と共同しようとしたが、三成が遠方の検地に赴いていた為、思うように動けなかったとする説もある。
否定的材料
豊臣秀次事件のとき、三成は秀吉に対して、「御謀反調議ノタメニ、山々ニ在留セラル」と讒言し、これが秀吉に秀次排除を決意させたとされるが、現在は秀次の謀反説及び讒言説は否定されている。三成は秀吉の意向を受けて働いただけであり、結果として事務処理をせざるをえなかった三成が秀吉の代わりに憎まれ役になったという事実があったにしろ、それをもって「秀次を謀反の罪で直接糾弾したのは三成」と断言できるかどうかについては意見がわかれる。
改正三河後風土記等には豊臣秀吉臨終時の五奉行の会議で、徳川家康と前田利家に秀吉の死を連絡するかどうかの議案に反対したにも拘らず、個人的に密使を二人に送って秀吉の死を知らせたことが記されている。そのせいで一時期彼は家康と利家の心象を良くし、逆に二人と仲が良かったものの議決に従って秀吉の死を秘した浅野長政は不信を抱かれている。ただし、このスタンドプレーは最終的には家康、利家、長政の三人にバレてしまい、三者を激怒させる結果に終わっている。
関ヶ原の戦いの際に、大谷吉継は三成に対して「お主(三成)が檄を飛ばしても普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前中納言(宇喜多秀家)を上に立て、お主は影に徹せよ」と諫言し、三成の立案した作戦を「それは作戦などではなく博打というものだ」と語ったといわれる。三成は当初は諫言に従ったが、後にはいつもの横柄さに戻ってしまったという。
蒲生氏郷を毒殺したという疑惑も存在するが、現在では氏郷の死因は膵臓癌であったと見られている。
蒲生家の騒動(蒲生騒動)を仕掛け、蒲生家の弱体化を三成が謀ったとも言われる。蒲生家の多くの旧臣が三成に仕え、三成のために死んでいるという反証もあり、現在は否定されている[要出典]。
淀君と密通していたのは大野治長だというのがかつての通説だったが、大河ドラマ「秀吉」(1996)で、真田広之の三成と松たか子の茶々のラブシーンが描かれ、以後、三成と茶々の密通を信じる人間が増えている