■FX用語 国際金融取引

家康は、自分に屈辱的な大敗を経験させた武田信玄を素直に尊敬し、武田家の遺臣から信玄の戦術や思想を積極的に学んだ。 また源頼朝も尊敬し、頼朝の言動が記録された「吾妻鏡」を愛読していた。その反面、信長のように身分を無視した能力主義をとることはなく、秀吉のように金や領地を餌にして釣った人間を重用することもなかった。その為か、彼らに天下を統一され遅れをとったが、代わりに自身は信頼できる部下だけでそばを固めることが出来、豊臣政権の不備もあって天下人となった。偉大な先人から学びとり、それを取捨選択しその時流や自分の状況にあう行動をとったことは十分に名君と呼ぶに値するというものもある。 家康の仇名として「狸親父」というものがある。資産運用 の歌舞伎作品において、家康を暗喩する悪玉の名前として用いられたものである。明治以降は公然と家康の渾名として用いられるようになった。これは、家康が謀略に長けていたことを表すものであるが、同時に卑劣な人物であったという印象も与えるものであり、近年の家康に対する評価を大変低くさせている一因となっている。 家康は常に冷静沈着な知将だったとされているが、これは逆に家康が小心な人物だったのではないかとされている。事実、短気で神経質な一面も持ち、家康は関ヶ原の序盤戦で東軍が不利だったとき、門奈長三郎という小姓の指物の竿を一刀のもとに切り捨てたという。さらに家康は苛立ったり、自分が不利になったりすると、親指の爪を常に噛み、時には皮膚を破って血を流すこともあったという。古記録にも、「公(徳川家康)、おほいに気をいらだちたまひ、左の御指の爪を食ひ切る。血しぶき噛みたまふように見えさせたまふ」とある。 家康は度々、情を排する冷徹な現実主義者で重臣であろうと容赦なく切り捨てるというイメージが先行している。しかし若い頃は三方ヶ原の戦いで夏目吉信が囮になって討ち死にするまで頑として討ち死にする覚悟で戦い、最晩年に真田幸村に斬り込まれた際も腹を切ろうとした。また、吉信の子が規律違反を犯しても超法規的に赦し、本多忠勝の決死の嘆願で真田昌幸を助命するなど感情に流されるケースも少なくない(自身もその性格を理解していたのか、信康を処刑する間も一度も会おうとしなかった)。特に苦労を共にしてきた三河時代からの家臣たちとの信頼関係は厚く三方ヶ原の戦いで三河武士が背を向けず死んで行ったという俗説をはじめ、吉信、鳥居元忠らの盲目的ともいえる三河武士たちの忠節ぶりは敵から『犬のように忠実』と言われたことから、投資信託 の人望は非常に厚かったといえる。 家康と宗教 戦国時代最大の武装宗教勢力であった一向宗本願寺は第十一世門主顕如の死後、顕如の長男教如と三男准如が対立し、教如が独立する形で東本願寺(真宗大谷派)を設立、のちにこれに対して准如が西本願寺(浄土真宗本願寺派)を設立し、東西本願寺に分裂するが、この分裂劇に関与しているのも家康である。今までは、若き日に三河一向一揆に苦しめられた事のある家康が、本願寺の勢力を弱体化させるために、教如をそそのかして本願寺を分裂させたものとされてきたが、近年になって真宗大谷派が「教如は家康にそそのかされて東本願寺を設立したのではなく、元々独立志向があった」とする見解を史学研究の結果として正式に表明しており、本願寺の東西分裂が通説のような家康の策謀によるものであったかどうかはっきりしない状況だが、少なくともこの分裂劇に際し、教如を支持して東本願寺の外国為替証拠金取引 を寄進したのが家康であることは確かである(真宗大谷派も教如の東本願寺の設立に家康の関与があったことは認めている)。そしてこの本願寺の東西分裂によって東西本願寺はお互いに対立関係に陥り、結果戦国時代に諸大名を脅かしたような強大な武装宗教勢力ではなくなってしまった。かつて織田信長は本願寺と交戦しその後和睦したが、実質的には長年猛威を振るってきた本願寺の権威を失墜させるなどの弱体化に成功し、豊臣秀吉は逆にこれを懐柔しようとしたが、家康の場合はその関与の度合いは不明とは言え、結果的に本願寺を内部分裂させて、彼らの自滅を誘う形でその勢力を更に弱めており、この事も家康の老獪さを表す事象として批判的に捉えられることがある。 ただし、三河一向一揆が起こった際、敵方の一向宗側には昨日まで家康の家来だった者も見受けられた。中には、本多正信や夏目吉信などもいた。だが家康は彼らを怨まず、逆に家来として再び召抱えている。彼らは家康に恩を感じ、本多正信は家康晩年のブレーンとして活躍し、夏目吉信は三方ヶ原の戦いで家康の身代わりになって戦死した。 近現代における評価 明治維新後に家康の悪評が高まったのは、明治政府が江戸幕府を倒して建てられた政権であり、江戸時代を悪とするのが明治政府にとって都合が良いことであったからと言える。特に太平洋戦争前は、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が大日本帝国における、帝国主義的な領土拡大と合致し、「朝鮮征伐」と称されるほど是とされていたため、「秀吉は清君、それに背いた家康は奸君」と歪められた評価をされることが多かった。尚、この時期は家康のみならず彼らの尊敬の対象であった平将門や足利尊氏に対しても批判的な評価がなされていた時期である(尊氏に対しては家康もまたFX に見ていたとする説もある) 山岡荘八の小説、「FX 」では、幼い頃から我慢に我慢を重ねて、逆境や困難にも決して屈することもなく先見の明をもって勝利を勝ち取った人物、平和を求める理想主義者として描かれている。この小説によって家康への再評価が始まり、それは現在も続いている。そのため、家康を苦労人・不屈の精神力の持ち主として高く評する者もある。 司馬遼太郎は家康について記した小説「覇王の家」あとがきで、家康が築いた江戸時代については「功罪半ばする」としているが、「(日本人の)民族的性格が矮小化され、奇形化された」「大航海時代の潮流から日本をとざし(略)世界の普遍性というものに理解のとどきにくい民族性をつくらせ、昭和期になってもなおその根を遺しているという不幸もつくった」と功罪比べてみれば罪の方が大きいと批判的である(家康自身への批判と同一でないことに注意)。そしてその功罪の原因が「徳川家という極端に自家保存の神経に過敏な性格から出ている」、「かれ自身(家康)の個人的性格から出ているところが濃い」といった記述をとって、司馬は家康について極めて批判的であり、また極端に嫌悪してたとする司馬評は少なくない。しかしながら秀吉が陽気な性格によってその奸智を目立たなくしているのに対して、家康は華やかさのない性格によって奸智の面ばかりが世間の印象に残ってしまうと指摘しているように、司馬は家康を一方的に貶めているわけではない。『関ヶ原』や『城塞』で描かれる石田三成や淀殿の観念主義に対して家康の現実主義を対置させることによって、理性的なキャラクターとして家康を描いている。また「自らを一個の機械のように扱う」という家康のキャラクターは花神の主人公・大村益次郎にも通じており、自分を強く律しながらも危機においてしばしばタガが外れるという、人間的なキャラクターとしても描かれている。 天下を平定したとはいえ、信長・秀吉に比べて守旧的な組織しか作らなかったとして、家康を名君・奸君とするのは過大評価であるとする説もある。家康は、独断で物事を決するよりは、専ら評定を開いては家臣だけで議論をさせ、家臣たちが結論を出したところで決断をするところから、家臣の使い方が多少優れ、たまたま長生きしたために天下を取ることができた凡人に過ぎないとする意見もある。武光誠の『凡将家康天下取りのくりっく365 』がこの説を採っており、池宮彰一郎の小説『遁げろ家康』もこの観点より書かれている。 「人の一生は重荷を負ふて遠き道をゆくがごとし… 怒りは敵とおもへ」で有名な家康公の「御遺訓」は、明治時代に元500石取りの幕臣、池田松之介が徳川光圀の遺訓と言われる「人のいましめ」を元に家康63歳の自筆花押文書との体裁にしたものを高橋泥舟らが日光東照宮など各地の東照宮に収めたものであることを尾張徳川家の徳川義宣が考証した。 また、これとよく似た『東照宮御遺訓』(『家康公御遺訓』)は『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』、『万歳賜』ともいう。これは松永道斎が、井上主計頭(井上正就)が元和の初め、二代将軍徳川秀忠の使いで駿府の家康のもとに数日間の滞在した際に家康から聞いた話を収録したものという。江戸時代は禁書であった。一説には偽書とされている。 健康オタク 家康は現在でいう健康オタクであり、当時としては極めて長寿の75歳(満73歳4ヵ月)まで生きた。もともと凝り性だった家康は食事のつりあい、消化のよさなどを考えて台所に献立を通達していたと言われている。その食事は質素で、戦国武将として戦場にいた頃の食生活を崩さなかった。死因となったともいわれた鯛の天ぷらは、生涯の最初で最後の贅沢であった。また生薬にも精通し、その知識は専門家が舌を巻くほどのもので一説には自分で調合していたとも、孫の家光の大病を治したとも言われるほどである。逆にしばしば水銀など劇薬まがいの薬剤を利用して強過ぎる薬を調合し、常備薬のように服用したため、専門家から諌言されていたとも言われる(なお、当時水銀は梅毒の治療薬に用いられていたため、家康が梅毒であったと推測できる)。ちなみに、精力剤である海狗腎は家康の薬の調合に使用されたという記録が残っている。関ヶ原合戦では、家来に石鹸を使用させ、感染症を予防させている。また趣味の一つとされる鷹狩りに関して、司馬遼太郎は「運動が健康にいい事を知った日本で初めての人物かも知れない」と『覇王の家』の中で述べている。 新しいもの好き 実は、南蛮胴、南蛮時計など新しい物好きだった家康。裏がつるつるで滑りやすかった南蛮渡来のくつの裏に日本のわらじからヒントを得て滑り止めの溝を彫らせ滑りにくくしたという挿話もある。